スイートレス・シュガー (春壱)

 

 ある雪の日のことです。中学生の太田くんは、喫茶店で同じクラスの佐藤さんと向かい合わせに座っていました。太田くんが勇気を振り絞って呼び出したのです。しかし、そこで勇気を使い果たしてしまったようで、肝心な時に何も言えないでいるのでした。
佐藤さんは微笑んでこっちを見ています。太田くんは汗をかきながら、格好つけて頼んでしまったコーヒーに、ひたすら砂糖を入れ続けていました。
「あ、あの……」
 ようやく太田くんは口を開きました。
「す、す、好きです、つ、つ、付き合ってください」
 何とか練習通り、典型的な台詞を言えました。しかし、佐藤さんの返事は典型的ではありませんでした。
「私のこと、どれくらい好きですか?」
 太田くんは想定外の返答に呆然とし、ただ汗だけが流れました。
 とりあえず口に含んだコーヒーは、あれほど砂糖を入れたのにも関わらず、とても苦いままでした。

 

 太田くんは自分の部屋でマシュマロをお供に、図書館で山のように借りてきた本とにらめっこしていました。どれくらい好き? この問いへの上手い返答を、古今東西の本の中に探していたのです。しかし、普段あまり本を読まない太田くん、活字になかなか集中出来ず、居間でお母さんに怒られたらしい妹の亜芽ちゃんの、泣き声ばかり頭に入ってきます。
「うえぇん、ママなんか、ひくっ、ママなんかだいっきらいぃ」
 本の中の恋人へのささやきは、どれもこれも気恥かしくて、口になんか出せないものばかりです。
 太田くんも分かってはいるのです、たとえ
「僕の貴女への愛は、山よりも大きく海よりも深い」
 とか
「貴女への愛で僕の胸は燃え尽きそうだ」
 とか何とか言ってみたって、自分の胸の中の思いの強さは伝わらないと。頭の悪い自分にも丁寧に通分の仕方を教えてくれて、いじめられっ子にはいつも優しく、いじめっ子にはあくまで厳しい、聡明で明るくて芯の強い学級委員長佐藤さんへの「好き」の程度を、伝えてくれる言葉を探すのは本当に難しいことだと。
 窓の外では雪がしんしんと降りつもり、まるで、甘くない粉砂糖のようでした。
 太田くんはため息をついて、おやつを食べに居間へ行きました。

 

 居間では、幼稚園の制服を着たままの亜芽ちゃんが、未だに泣き続けていました。
「ぐ、ごめんなさいぃ、ママあ、ぐぉめん、ひくっ、なさいぃ……」
 亜芽ちゃんにお母さんが言いました。
「よしよし、わかったわ。ママもう怒ってないから、泣くのやめようね」
 亜芽ちゃんが嗚咽を漏らしながらお母さんに抱きつきました。
 しばらく抱きしめてから手を離し、お母さんが亜芽ちゃんに訊きました。
「あっちゃん、ママのこと、好き?」
「好き」
「どれくらい?」
「いっぱい!」
 亜芽ちゃんはお母さんから離れると、両手を広げて居間中を走り回りました。涙の跡だらけの顔はきらきらの笑顔で、お母さんが大好きだということを子どもだけが出来る方法で表現していました。
 太田くんは、それを見て何かに気付いたようでした。

 

 ある雪の日のことです。中学生の太田くんは、喫茶店で同じクラスの佐藤さんと向かい合わせに座っていました。太田くんが勇気を振り絞って再び呼び出したのです。
 太田くんは、すでに砂糖をたっぷりと入れ終えたコーヒーを前に、微笑んでこっちを見ている佐藤さんに言いました。
「好きです、付き合ってください」
「私のこと、どれくらい好きですか?」
 太田くんは額の汗を軽く払うと、大きく一回息をしました。そして、佐藤さんの目をしっかりと見て、言いました。
「大好きです」
「心から」でも「とっても」でも何でも良かったのです。何と発音するかは問題ではない、と今の太田くんは知っていました。
「ありがとう」
 佐藤さんはにっこりとして言いました。
 そして……
「でも、お付き合いはダイエットの後でね。太田くん、痩せなきゃ体に悪いわよ」
 太田くんは、詰襟のボタンが今にも弾け飛びそうな、自分のぶよぶよの体を見下ろしました。
「佐藤さんは、甘くなかった……」
 太田くんはこっそり、つぶやきました。

 

 

彼岸花 (藤猫くする)

 

 K青年は、一面の彼岸花の中を、さくさくと歩いていました。
 足元はどうやら、細かい砂利です。左右には、見渡す限りに赤い花が広がって、そこここで風に揺れてざわざわと音をたてます。その微かでとめどない音と、砂利を踏む自分の足音以外は、何も聞こえない場所を、青年は一人どこまでも歩いているのでした。 
 いつの間にか、青年は右手に彼岸花を一輪持っていました。青年が一足進めるごとに、赤い花弁がぱたり、ぱたりと落ちました。どれほど落ちても花の形が崩れることはなく、また萎れることもありません。それは、左右の景色がどこまでも続いているのと同じで、K青年にとっては取るに足りないことでした。ただ、みずみずしい茎が滑るので、時々しっかりと握りなおしました。いつから持っているのかわからない花ではありますが、それを取り落してはならないように、青年には思われるのでした。
 ふと、一面の彼岸花が映っていく視界に、それ以外のものが紛れて、青年は知らず足を止めました。そうして、首を回してそれを視界の中心に据えました。
 そこにいたのは、一人の少年でした。砂利の道端に、転がった少し大きい石に腰をかけて、こちらを見つめるTシャツ姿の少年でした。彼岸花を渡る風がそよそよと、麦わら帽のつばを揺らしています。汗ひとつかいていないその姿は、どこか滑稽に、K青年の目には映りました。
 少年は、青年が自分を見ていることをしっかりと悟った表情で、けれどにこりともしないまま、青年に声をかけてきました。
「こんにちは。」
 こんにちは、と青年も返しました。少年は、ぐるっと一遍青年の姿を眺めまわして、それから右手の彼岸花をじいっと見つめた後、再び青年の目を見つめて、口を開きました。
「それ、どうしたの。」
 訊かれても、青年にはわからないことでしたから、首をかしげました。すると、少年はため息をついて、座っていた石から腰をあげました。
彼岸花は、すき?」
 考えたこともないな、と青年は再び首をかしげました。その拍子に、茎が右手から滑り落ちそうになったので、ゆっくりと持ちなおしました。ぱたり、とまた、花弁が落ちました。
 一面の群生の中を歩いてきたのに、その手には花を持っているのに、K青年にとって彼岸花は、なんとも思いもしないものなのでした。
 少年はまたため息をついて、青年を見つめました。
「そうなるまで、だれも、」
 不思議な瞳でした。黒目がすうっと透明になるように底光りして、けれどもずいぶん昏い色をしているのです。彼岸花の燃えるような赤が、くっきりとその中に映り込んでいるのに、その色はしんと水を打ったように静かなのです。
「あなたを、ゆるしてはくれなかったんだね。」
 その声音には、哀れむ様子も悲しむ様子もなく、ただ後悔に似た諦めだけが、彼岸花の群生のように、静かに揺れているのでした。
 すう、と少年の細い指が、K青年の後ろをさしました。
「ここを、もどって。」
 ざあ、と風が、それを示すように、青年を導くように吹きました。
「ぼくはあなたを、ゆるすことはできなかったけれど。」
 ざわざわと、彼岸花が鳴り渡ります。つられて体の向きを変えた青年の足元で、砂利がぎしりと音をたてます。ぱたり、と花弁が落ちます。
「つれもどすことはできる。あなたの『彼岸花』が、まっているよ。」
 その言葉が合図だったように、K青年は道を戻りました。最初は歩く速度で、次第に足早に、小走りになって、しまいには走り出しました。右手にはしっかりと、花の柄を握ったまま、そこから落としてきた花弁を辿るように。
 走る先に、何かが見えました。いつの間にか、左右に広がる彼岸花は消え失せて、それとすり替わるように、見えてきた何かは赤いのでした。
 あの色を、K青年は知っています。あれは、ドレスの色。彼の妻が一番好きな、彼女に一番似合う、真っ赤なドレスの色です。

『わたし、赤が一番好きよ。あなたがわたしに似合うって、言ってくれた色だから』

 そう言って君が笑ったのは、どれほど前のことだったろう。
 その赤いドレスに袖を通して、君は他の男の手を取ったんじゃないか。
 君を責めるなんて選択肢は許されなかった。けれど、去っていく君を放すなんて、できやしなかったから。

 彼岸花の花茎が伸びるように、唐突に伸びた青年の腕の先には、真っ赤な花が咲いたのです。ドレスよりもずっとずっと赤く、妻の喉元に。
 耳の中で、ざわざわと渡る風のように、血の音がなっています。倒れた妻を見下ろしながら、青年はそれを聞いていました。
 ぱたり、と、右手の包丁から、花弁のように赤い血が滴り落ちます。それを取り落さないように、K青年はしっかりと握りなおしました。

 

 

美しき霊が消える前の跡 (雪野灯)

 

 美しき霊が消える前

 夕焼けに照らされるもの

 影法師は延び、沁みが大気を侵す

 雨が降り注ぎ、時を暗いままにする

 狭間に隠れた蛙は田園で啼くが、

 いつかの子供がつけた足跡は見えないだろう

 美しき霊よ

 それは在るはずだった

 森に満ちた獣の声が、満月とともに昇りゆく

 太陽はそれに気づかない

 草原をなでる風はどこから来た?

 さざめく草はきっとその一律を

 寂しさの流動がもたらす出会いを知らない

 廃墟がもっていたかつてのざわめきのように、

 それは時にさらわれた

 どこへいった?

 ネオン街が作る虹や塵芥が沈む泥水を巡り、

 教室に満ちた青さや巨大な時計に残る傷を経て、

 滝の滴や電車の一両が帰りつく場所

 川を流れる水が始まりと終わりをつなぎ、

 広大な始まりにすべてが戻る

 閃光が弾けて広がり続けている今も

 儚いことは脆く、一瞬に輝きをもつ

 舞う粉雪と、それが触れたぬくもりのように

 

 

 車が走る高速道路の下、苔むした階段を登り、

 赤よりも明るい朱の鳥居を潜り抜け、

 神の社に手を合わせる

 高速で流れる光は薄れゆく闇にまぎれ、

 瞬く間に視界から消える

 上空に浮かぶ不動の光と同じように

 いつまでも絶えない街灯が

 ふっ――と消えるころ

 思いを馳せた

 美しき霊が消える前、その跡について

 

 

 

灰皿札幌支部の基本情報とメンバー紹介&作品集紹介

 どうも皆さま、こんにちは。事実上Web広報担当と化している笹谷爽でございます。

 我々は、2017/7/9の文フリ札幌に出店するサークルの一つです。

 今さら感は強いですが、我らが灰皿札幌支部のメンバーや当日販売する作品集の紹介をさせていただきます。

 

1.基本情報

サークル名:灰皿札幌支部

ブース:うー11  

参加人数:7名

Twitter:@haizarasappooro

 

2.メンバー

⑴ 笹谷 爽 (ささや さやか)

 だいたいTwitterの中の人。春壱と共に、小説、詩、短歌の3ジャンルに顔を出している。

 

⑵ 篠崎 要 (しのざき かなめ) 

 小説のみ担当。他サークルでも精力的に(?)に活動しており、そのノウハウを我がサークルに提供してくれていたらいいなって私思います。

 

⑶ DUST SHOOTER

 唯一英語な筆名を使う人。詩のみで参加。それなりにふざけた筆名ですが、書くものは良いものを書きます。

 

⑷ 春壱 (はるいち)

 笹谷と同じく小説、詩、短歌の全てに参加しています。ちなみに短歌では笹谷の師匠にあたるような存在です、たぶん。

 

⑸ 緋来浮雲 (ひこうきぐも)

 読めない筆名選手権堂々の1位。小説のみ担当。その完成度の高さから満場一致で小説集のトリをつとめていますよ。

 

⑹ 藤猫 くする (ふじねこ くする)

 我がサークルのデザインを一手に引き受けている偉大なる存在。ぜひとも作品を手に取って藤猫の功績を確認してみてください。小説と詩で参加。

 

⑺ 雪野 灯 (ゆきの あかり)

 小説と詩で参加。詩では雪野ワールドが展開されております。ちなみに気づいたら会計管理をぜんぶやってくれているので有難いです。

 

3.当日持っていく作品

⑴ 小説集「吸殻」 500円

参加者:笹谷爽、篠崎要、春壱、緋来浮雲、藤猫くする、雪野灯

 

⑵ 詩歌集「紫煙」 500円 

 

参加者(詩):笹谷爽、DUST SHOOTER、春壱、藤猫くする、雪野灯

参加者(短歌):笹谷爽、春壱

 

⑶ 折本を何種類か 無料

 数ページ程度におさまる掌編、詩歌が収録されます。

非正統派・大学生活のすゝめ (笹谷爽&篠崎要&緋来浮雲)


「では、これで今日の授業を終わります」
 教授がそう言うやいなや、教室は喧騒に満ち溢れた。これで五時限目の授業も終わった。窓からは茜色の陽光が漏れている。
今日の授業はこれで終わりだ。小大塚(こおおつか)博之は我先にと出口に殺到する生徒達に紛れて、教室を抜け出した。雑談する集団を尻目に小大塚は小さく溜め息をつく。
 小大塚の大学デビューは悲惨なものだった。入学式からの一週間をインフルエンザで休んでしまったのだ。その間にクラス内でのレクリエーションや何やら――端的に言うなら、大学における群れと縄張りの形成期間――は終了してしまい、悲しいほどとんとん拍子に小大塚は孤立した。また、大学のクラスは形式的なものであり、授業には殆ど関係がないため、挽回も難しかった。
 そんな状況を改善しようと、いくつかのサークルを回ったりもしたが、明らかにお遊びだったり無理矢理に飲酒を強要されるようなサークルは、小大塚にとって苦痛でしかなかった。
 しかし、クラスの輪に溶け込めない以上、自分も何かサークルに入っておくべきだろう。小大塚は溢れんばかりにチラシが貼られている掲示板を眺めた。フットサルサークル、合気道部、ブラスバンド同好会に聖書研究会。多種多様なサークルが必死に新入生を勧誘している。
 こうなったら、何か新しいことをやるのもいいかもしれない。これだけのサークルがあるのだから。なんなら早速今日どこかの説明会に行ってみようか。
そう考えながらもう一度丁寧にチラシを見ていくと、明らかに異様なチラシが目に留まった。
「……何、これ」
 チラシには紙面一杯に描かれた、右目に眼帯をしたアニメ調な美少女が一人。そしてその右下には日時と場所が流麗な字で書いてある。無駄にポップでキュートなチラシだった。
眼帯美少女曰く、
『さあ、君も運命を司る会へ行こう! マリーちゃんからのお願いだよ☆』
 怪しすぎる、
 怪しすぎる。
 怪しすぎる! マリーちゃんって誰だよ!
 他のチラシの影になって隠れていたとはいえ、どうして今までこのチラシに気付かなかったのか、不思議なくらい怪しいチラシだ。
 運命を司る会って……これ、カルトじゃないのか? 小大塚はそう思ったがすぐに考え直す。カルトならもう少し勧誘にも威厳を持たせるだろう。少なくともマリーちゃんはない。
 しかも――。
 小大塚は携帯を取り出して日付を確認した。
 説明会は今日だ。今日だけだ。そして、開始はちょうど今から十五分後。
 掲示板の前で携帯の画面とマリーちゃんとを見比べる。
 ……い、行ってみようか?
 どうせやりたいこともないし、仮にカルトだったとしても自分なら大丈夫だ。宗教なんて信じない。それにもしかしたら、奇跡的にまともで面白いサークルかもしれない。そうだ、あまりに危なそうなサークルだったらすぐに逃げ出せばいい。だから少しだけ様子を見てみよう。
 そうやって無理やり理屈をつけると、小大塚は、恐る恐る説明会場になっている二階の教室に足を運んだ。
 誰もいなかった。


 小大塚が呆然と教室に立ち尽くしてから秒針が三周した後、不意に教室のドアが開いた。
 入ってきたのは女性だった。けだるそうな雰囲気、艶めいた黒髪、整った造作は、どこか日本人形を彷彿させた。もっともそれは美貌云々というより、肩の辺りまで切り揃えられたおかっぱに近い髪型と、何よりも彼女が蝶の文様をあしらった桜色の着物を着ているからだろう。その姿は、いくら大学でも、明らかに異様だった。
 彼女は小大塚の姿を認めると、ぼうっとした様子で尋ねた。
「貴方は運命を司る会の説明会を聞きにきたの?」
「は、はい」
「そう、私は運命を司る会の大迫美結。三年よ。じゃあ、まあ適当に座って。説明会を始めるから」
 やはり、彼女は運命を司る会、とやらの一員らしい。ゆらゆらと袖を揺らしながら美結は教卓へ上がった。
「えっと、いいんですか? まだ時間じゃないですけど……」
「いいのよ、別に。どうせもう来ないでしょう」
 手をぷらぷら横に振ると「あ、そうそう」と美結は何かを思い出したのか一人頷いた。
「誰のチラシを見たか訊かれたら、『美結先輩の』って答えてね」
「え? どうしてですか」
「どうしても。一大事だから。重要事項だから。テストに出るから」
「は、はあ、わかりました」
 その剣幕に小大塚が取り敢えず曖昧に答えると、「うん。よろしくね」と美結は満足そうに微笑んだ。
「では、説明会を始めます」
 一息おくと、美結は厳かに宣言した。そして袂から四つ折りにされたルーズリーフを取り出すと、それを読むため、静かに息を吸う。小大塚は、その佇まいに、思わず姿勢を正してしまう。
「まず初めに、この運命を司る会はカルトではありません。超全神の教えを聞いたり、彗星から、コスモパワーを、受信したりしません。安全でヘルシーで無農薬な団体です。しかしカルトというものは、自分なら大丈夫、宗教なんて嘘くさい、と思ってる人に限ってハマりやすいものです。何故ならそういうタイプの人は往々にして、偉大な何か、既存のものではない、自分が信じられる偉大な何かに、身を委ねることを潜在的に望んでいるからです。そして好奇心は身を滅ぼす。これは世の慣わしです。歴史が証明しています、ね――」
「…………」
 なんの説明だこれ?
 美結はそこまで読みあげると、静かにゴミ箱の方に歩いて行き、ルーズリーフを丸めてその中に叩き込んだ。
 そして小大塚の視線に耐えかねるように咳払いを一つすると、引きつった笑顔で振り返る。
「え、えー、し、質問は?」
「……取りあえず今の文章を書いた人は誰ですか?」
「私じゃない。私じゃないから」
 赤くなった顔の前でぱたぱたと袖を振る。小大塚はとりあえず頷いてから、手を上げる。
「……えーと、つまり、運命を司る会って、結局何をやる所なんですか?」
「そ、それはね、まあ一言で言うなら色々」
「じゃあ、具体的には何をやるんですか?」
「なんか一応理念があって、それに則って活動してるの。その理念ってのが……。ええと、その、だから――」
 美結は段々と汗を浮かばせ、おろおろと虚空に助けを求める。その雰囲気から既に、小大塚は少し興味が失せてきていた。
 ああ、これも適当なサークルか。面倒だし、もう帰ってしまおうか……
 ――そんな事を思った時、それを待っていたとでも言うように教室の扉が勢いよく開け放たれた。

「『運命という不確かな存在に従うことをやめて、自らの手で自らの将来を決定する為に己を高め、互いに助け合う』ですよ、美結さん」

 そして、唐突に現れた銀縁眼鏡の青年が、そう高らかに言い放つ。
 彼はそのまま自信に満ちたような足取りで教壇に上がると、美結の肩を軽く叩いた。ほっとした様子で美結はその場所を譲る。
「丹羽君、やっと来たのね。進藤君はいないの?」
「あいつは今日、臨時のバイトで来れなくなりました。食事には間に合わせると言っていましたが、まあ無理でしょう。ちなみに幸村は友達の誕生会があるとかで来ません」
 丹羽と呼ばれた青年と入れ替わるように美結は近くの席に座ると、意味ありげに目配せする。
「逃げたわね」
「ええ逃げましたね」
 頷き合う二人。小大塚は何の事やらと首をひねる。
「――それで、新入生君」
 仕切り直しだとばかりに声を大にし、丹羽は指を組んで鷹揚に話しかけた。
「俺の名前は丹羽凛太郎。運命を司る会の会長だ。あ、ちなみに二年工学部。以後よろしく。君の名前は?」
「よ、よろしくお願いします。小大塚博之です」
「珍しい名字だね。コオオツカって、どう書くの? 子どもの大塚?」
「いえ、小さい大塚です」
「成程。じゃ、君もう中塚でいいよ。めんどくさい」
 さらっと言われ、一瞬小大塚の動きが止まった。
「へ? ナカツカ?」
「そう、中塚」
「それ、いいわね。すごくわかりやすい」
 美結さえもこくこく頷きだす。
「それで、中塚くん、何か質問はあるかしら?」
「まずその中塚をどうにかしてもらいたいのですが――」
「他には?」
「……この会の具体的活動を」
 丹羽君、と間髪入れずに美結は丹羽にふった。
「了解。実際の活動としては、筋トレやスポーツ、料理に勉強、それとバイトとかをやっている。つまり色々だ。まあ後は皆で旅行に行ったりもする」
「すごい普通ですね」
「まあ普通だな。でも普通のことが出来ないと、立派なことも出来ない」
 丹羽は芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「まあ取りあえず、これで説明会はお終い。後は食事をしながらにでもしよう」
俺は腹が減っているんだ、と丹羽は付け加えた。
「まあいいでしょう。中塚君はこの後は大丈夫だよね?」
「え、ええ。まあ、一応」
「そりゃ良かった」
 丹羽は片頬をつりあげた。
「言っておくが、運命を司る会には基本後輩におごるという慣習は存在しない。大学生なのだから自分の面倒くらい自分でみないとな。他人の金に頼るなんて良くないよ。ま、今日は特別におごるけどね」
 さあ行こうとばかりに丹羽はさっさと教室の電気を消してしまう。小大塚は慌てて鞄を持って立ち上がる。横で同じように焦った美結が足を机に引っ掛けて盛大に転んでいた。とりあえずそれを助け起こしてから、丹羽の背を追う。
 丹羽は教室を出る直前「あ、そうそう」と不意に立ち止まって振り向いた。
「中塚はどんなチラシを見て、今日説明会に来ようと思ったの?」
 ……そう言えばテストに出るんだっけ。小大塚は美結をちらっと見た後、「み、美結先輩のですけど」と躊躇いがちに答える。
 だが、丹羽はその仕草を見逃さなかった。
「ふうん」と相槌を打つと、何気ない風を装って問いかける。
「で、どんな感じのチラシ?」
「え? そ、その、アニメチックなチラシでしたけど」
「成程ねー」
 丹羽は笑いながら美結のことを見た。視線を向けられた美結は気まずそうに、すっと視線を逸らした。
「……何かしら丹羽君。やましい事は何もないわよ?」
「ま、いいですけど。でもばれますよ、多分」
 丹羽は先陣を切って教室を出た。残りの二人も後に続く。
 小大塚は先程のやりとりを訝しみながらも、「それで、どこに行くんですか?」と尋ねた。
「ああ、まだ言ってなかったよな」
 銀縁眼鏡を指で押し上げると、丹羽はにっかり笑った。
「焼肉屋」
 返ってきたのはいささか意外な答えだった。

 

 

「今頃、あいつらは焼き肉屋に行くのかなあ……」
 進藤勇騎はドリンクコーナーの上にある時計を見て呟いた。
 コンビニアルバイターである進藤は、立ち読み客が一人いるだけの店内で商品補充をしていた。とはいってもそもそも客が少ないこの時間帯。補充するほど商品は減っていないのだが、あらゆる業務を超速で済ませた進藤には、今はこれ以外にすることが無いのだった。
 暇だ暇すぎる。有り余る行動力を持つ進藤にとって、この閑散とした店内は檻の中にいるようなものだった。その上まだあと二時間は拘束されるのだから、もはや苦痛でしかない。
 補充を終えた進藤は、バックルームに入ろうと立ち上がる。するとトゥルットゥルーンと軽快な入店音が鳴り響いた。
 進藤は反射的に入口の方に向き直りながら声掛けを行う。
「いらっしゃいませ、こんばん――おお!」
 そこにいたのは小柄な男。進藤の友人の佐藤最愛(よしあき)だった。
「あれ? なんでシンドゥーがいるの?」
「おう、ラブ。いいところに来たな。丁度暇してたとこだ」
 ラブというのは佐藤の愛称だ。最愛だからラブだと丹羽が勝手に呼び始めて以来、定着してしまった。
「今日は例の焼き肉の日じゃねーの? あ、さては賭けに負けたからってバイトに逃げやがったな! せっかく俺がビラを描いてやったってのに!」
「いや、違う違う。臨時で入っただけだよ。それにお前が描いたマリーちゃんが新入生の目に留まらないなんてあるはずがないだろ?」
「ひひ。それもそうだな。マリーちゃんはまゆみちゃんの次に可愛いし」
 佐藤はおどけた調子で笑う。それを見た進藤もつられるように笑いながら答える。
「ははは、まゆみなんて目じゃないだろ。あんな巨人と比べちゃあマリーちゃんも可哀想だって」
「えっ、何言ってんの? まゆみちゃんの方が可愛いよ?」
「……おま――」
 進藤が何か言おうとした瞬間、入口のドアが入店音とともに開いた。そして入ってきた男に進藤の言葉は遮られる。
「おいラブ! 何一人で先に行ってんだ。何で俺たちがお前んちの戸締りをしなきゃならないんだよ」
 佐藤よりもだいぶ大人びた風体、長身に眼鏡のその男は佐藤と進藤の共通の友人、平(たいら)和人(かずと)だった。
「家主が客人に戸締りさせるなんて前代未聞だぞ。というかそんな大事なことを他人に任せるなよ」
「ひひ。それだけ君たちを信頼しているってことだよ!」
 佐藤は悪びれる様子もない。怒る気も失せた平は、そこでやっと進藤の存在に気づくのだった。
「おう、進藤。焼き肉には行ってなかったんだな」
「この通り、バイトが入ってね。ピースはラブと一緒だったのか。あれ、アンドは?」
 ピースというのは平の愛称。命名者によると、漢字に「平和」が入っているからだそうだ。
「そろそろ来るんじゃないかな。お金下ろしてから来るって言ってたし――お、噂をすれば」
 平がドアの外を指さす。赤い服を着た茶髪の男がこちらに向かって走ってくる。そしてその男は、奇声をあげながら店内に飛び込んできた。
「シィィィィンドゥゥゥゥッ! 会えて嬉しいぜぇぇぇぇ!」
 その奇声に驚いた立ち読み客がそそくさと出て行く。まったく、営業妨害も甚だしい。
「うるせぇアンド! つーかこの前会ったばかりだろ!」
 進藤は露骨に嫌な顔をした。アンドと呼ばれた男は、進藤たちの友人である安藤育雄だ。安藤は進藤の肩に腕を回す。
「三日会えなかったら寂しくなっちゃうよぉ!」
「気持ち悪いからやめろって!」
 進藤は安藤の腕を振りほどく。
「喜べシンドゥー。これでラブアンドピースが揃った!」
 佐藤が嬉々としてそう言った。安藤はにやにやしているが、平は苦笑いである。進藤の知るいつもの彼らだった。
「まったく……ラブもアンドも、文化祭の準備で忙しいんじゃなかったのか? 漫研も軽音も何かやるんだろ?」
「ひひ。俺は新歓前に作品を描き上げたから今は暇なのだ」
「うちはボーカルが失踪中だから何もできないんだ」
 安藤は軽音でバンド活動をしていた。ボーカル不在となっては、彼のギターを披露する場はない。
「だったらせっかくだし、俺たちで文化祭に何かやろうぜ」
 佐藤はにやにやしながら言った。明王大学の文化祭である明王祭は一年で最大のイベントである。
「でも、何やる?」
「それはそのうち考える!」
 佐藤は何かやろうと提案することがよくあるのだが、具体的なところを決めるまでいかないのが欠点だった。進藤はふう、とため息をついてから口を開く。
「……ところでお前らはうちに何をしに来たんだ?」
 進藤の問いかけには、平が答えた。
「ああ、夕食に弁当でも買おうと思ってね。ここらのコンビニだったらやっぱりこの店の弁当が一番美味しいし」
「でも俺はやっぱ、ぽか弁がよかったなあ。コンビニ弁当高ぇんだよー。しかも美味しさで劣る」
 安藤が文句を言う。こいつは本当に営業妨害をしにきたんじゃないかと進藤は苛々する。
「ぽか弁は遠いじゃないか。それに、そっち行ってたら進藤にも会えなかったんだぞ」
 平がフォローするが、これは嘘だ。コンビニに行くことを提案したのは恐らく平である。
「それに、ここにある鳥天バランス惣菜弁当は絶品だ。栄養バランス的にも美味しさ的にも素晴らしい。なによりこの値段にしてタケノコの煮付けが入っているあたりの気配りが、泣かせるじゃないか。今なら期間限定で、春の贅沢ハンバーグ温玉乗せ弁当もあるぞ。こいつは肉をがっつりいける上に、春の野菜も取れる、まさに今が旬の弁当なんだ。年中食べたいのだが、この味を出せるのはこの時期しかない」
 平のコンビニ弁当知識には愕然とするしかない。彼のように弁当の名前と内容をすべて覚えるなど、バイトをしている進藤でも無理だ。
「あー、分かった分かった。コンビニ弁当は素晴らしいですよ」
 安藤が呆れた顔をして平の弁当談義を止める。
「ひひ。でも、たまには弁当じゃなくてもっと美味しいもの食べたいよねぇ」
「なんだとラブ。お前もコンビニ弁当じゃ不満だってのか。コンビニ弁当には作ってくれているパートさんの愛情が――」
「だったら全員一緒に焼き肉に行くぞ!」
 進藤は彼の言葉を遮る。平は面食らった顔をして反論した。
「いや、進藤今バイトじゃ」
「終わってから行くんだよ」
「でも、弁当が……」
「うるせえエビフライぶつけるぞ弁当屋郎。ああ、でもまだ二時間あるから、お前らが暇か……」
 進藤は一瞬だけ間をあけると、にやりとして三人を見回す。こういう時の進藤はたいてい変なことを思いついたのだ。佐藤と違い進藤は、思いついたことをすぐに行動に移す。
 同じくにやにやする佐藤と安藤。不安そうな顔をする平。
 進藤は彼らに有無を言わせず、言い放つ。
「じゃあお前ら、それまでうちでバイト手伝っていけ」

 こうしてラブアンドピースは二時間もコンビニで働く羽目になったのだった。

 何故自分はこんなところにいるのだろうか。
 山田まゆみは首をかしげずにはいられなかった。
 辺りには、肉の焼ける香ばしい匂いと、陽気な笑い声が満ちている。何もせずそこにいるだけで食欲がそそられ、お腹が鳴ってしまいそうなほど。
 そう。ここは焼肉屋だった。
「まゆみ、何突っ立てるの? あんたがそうしてると邪魔になるでしょ」
 共に焼肉屋に来た彼女の友人、幸村雪が声をかける。その言葉を示すように、店を出ていく人はまゆみを避けようと身を縮めていた。それに気付くと彼女は申し訳なさげに通路の端に寄る。が、それでも実質はそう変わらなかった。
 まゆみは身長が百八十センチと、女性としては――いや男性と比べてもかなりの高身長だった。そのせいで苦労することも度々ある。たとえば服。まゆみの服装は大抵簡素なシャツとジーンズだ。そしてそれは今日も例外でなく、まゆみの服装は黒いプリントシャツとジーンズだった。
 まゆみに注意を促した雪は、席に案内してくれた店員に優雅に会釈し、そのまま澄まし顔で席に座る。雪はまゆみと対照的に、淡色のワンピースを着ていた。肩まで伸ばした艶やかな髪を無造作にかきあげる。そんな動作だけでも堂に入った印象だ。
 促されるままにまゆみが席に座ると、三人の中で一番早く席に座っていたもう一人の友人、田代岬が早速メニューを開いた。
「じゃあお肉を早く頼もうよ。あたし、ロースが食べたいな。あとカルビー
「私は……そうね、ビビンバとか」
「ゆっきー、お肉食べようよ、お肉。ここは焼肉屋だよー」
「じゃあユッケ」
「んー、ならこの仲良く焼き肉セットってのを取り敢えず頼んじゃおっかー。色々入ってるみたいだし!」
 岬は、「あっ、すいませーん」とテーブルを横切った店員に声をかけた。呼び声を聞いた店員が素早く注文を取りに駆けつける。岬と雪は店員に向かって、手際良く三人分の料理と飲み物を注文した。
 店員が礼儀良くお辞儀をして去った後、
「……ねえ、どうして私はここにいるんだっけ?」
 まゆみは先程から考えずにはいられなかった疑問を二人にぶつけた。
「なんでって、そりゃ今日がまゆちゃんの誕生日だからだよ。二十歳だね、おめでとう!」
「おめでとうまゆみ。これで合法的にアルコールを摂取出来るわね。ついでにニコチンも」
 岬は実に無邪気な笑み、対照的に雪は含みのある笑みを浮かべて、わー、と手を叩く。祝ってくれるのは嬉しい、が。
「いや、うん、ありがとう。わざわざ祝ってくれて本当にうれしい。……でも、なんで焼き肉なの」
 できればイタリアンとかの方が……。そんな呟きに、ぴた、っと二人は動きを止め、互いに少し目配せする。
「でもあたしは焼き肉が食べたかったよ」
「昨日イタリアンを食べたから、それなら焼き肉のほうがいいわ。ほら、これで二対一。焼き肉に決定」
 そんな息の合った答えにまゆみは軽く目眩を感じる。
「……私主賓だよね? 私の誕生日だよね? 私のための食事会なんだよね?」
「そうだねっ!」「その通りね」
「でも私の意見は優先されないんだ……」
「だって焼肉美味しいもん」「時代は民主主義よ」
「いいよもう……。店に入った時点で諦めてたよ……」
 まゆみはそのまま頭を抱えてテーブルに突っ伏したくなった。この二人にまともにつきあえば、どう頑張っても振り回されてしまう。
 まゆみの心境を他所に、店員が飲み物を持ってくる。間を開けずに大皿いっぱいに載せられた肉、野菜と、次々と運ばれてくる食材でテーブルが一気に華やかになった。
 目の前の豪華絢爛な様子を見た岬は、そわそわとした様子でグラスを持ち、二人の顔を交互に見る。まるで待てをされた子犬のようだ。こうなっては仕方がないと、呆れたような笑みを浮かべ、まゆみと雪もグラスを上げる。
 岬は腕を伸ばし、一番高くグラスを持ち上げ、満面の笑みで大きく息を吸う。
「ではでは、まゆちゃんの誕生日を祝って――」

 

 

「乾杯!」
 丹羽が景気良く音頭を取る。小大塚はジョッキをぐっとあおった。残りの二人もそれぞれのグラスに口をつける。金網の上では食欲を誘う肉の焼ける音が踊り、載せられているカルビは既に食べ頃だった。
「中塚も遠慮せずに食べろよ。そうしないと肉がどんどん消えてなくなるぞ。主に、俺のせいで」
 実際、有言実行とばかりに丹羽が自分の皿に肉を入れるので、みるみるうちに金網の上にあった肉が減っていく。その細身のどこに肉を詰め込む容量があるのだ、と小大塚は少し驚く。
 小大塚もいい具合に焼き目のついたカルビを箸でつまむと、そのまま何もつけずに口に運んだ。丹羽はそれを見て少し目を見開く。
「あれ? 中塚タレつけないの?」
「ああ、はい。肉はそのままの味を楽しみたいんですよ」
「……変わってるわね」
 美結は口を手のひらで覆い、動物園の珍獣を見るような目つきで小大塚を見つめた。小大塚は意外な反応に首を傾げたくなる。むしろ、肉に何かをつける意味がわからないと言いそうになった。
「まあ、好みは人それぞれですし。美味しければそれでいいんですよ」
内心美結に同意しながらも丹羽はさりげなくフォローを入れる。「で、味のほうはどう?」
「はい、美味しいです」
「だろ? ここの店は値段の割には肉がしっかりしていて美味いんだ。さ、どんどん食ってくれ」
 丹羽は上機嫌でジョッキを傾けながらも間断なく肉を金網の上に載せていく。自分も結構な速さで肉を口に運んでいるのに、ひっくり返したり場所を調整したりと余念がない。
「ほら、美結さんも食べたらどうです? 食べないと損ですよ?」
「ええ……まあ、そうね」
 勧める丹羽に適当に返事をしながら美結はレモン汁の入った容器を取った。しかし、傾け過ぎで、勢いよくレモン汁が注がれてしまう。「あっ」と声を上げた時には既に皿はレモン汁で溢れんばかりになっていた。
「あーあ、入れすぎですよ。こっちの皿に載せますね」
 丹羽は手際良く備え付けのトングで、美結の皿に綺麗に焼けた肉を載せていく。美結が、「ありがとう」と小さく礼を言うと、丹羽は笑ってジョッキを傾けた。小大塚はそんな二人にちらと視線を向けた後、自分の肉を育てる作業に戻る。肉は有限だ。食べられる時に食べなければ、世の中回って行かない。


「――もうそろそろ四月も終わるけど大学のほうはどうだい? 流石にもう慣れた?」
 ふと話の途切れた間を縫って、丹羽が訊いた。小大塚はホルモンを頬張りながら顔を上げる。
「え、ええ。少しは。えーと、丹羽先輩は去年の今頃どんな感じだったんですか?」
「俺? 俺かあ。去年はどんなだったなあ……」
 美結が耽々と箸を動かす傍ら、丹羽は箸を休めると腕を組んで視線を宙に泳がせた。
「色々と忙しかった気がする。運命を司る会をつくろうと進藤と動いていたから」
「進藤……って、その」確か会話には出てきていた気がする、と小大塚は思う。
「ああ、進藤はこの会のメンバー。今日はバイトだけどな。あいつが副会長みたいな感じで、去年の今頃にこの、運命を司る会を作ろうと思ったんだ」
 丹羽はジョッキをぐいと呷ると長く息を吐く。結構な数を飲んでいるが、全く顔色が変わらない。その半分も飲んでいない美結は既に顔を薄紅色に染めてしまっていた。
「なんだか気付いたら一年経ってたな。こうやって中塚と話してて、ようやく自分が二年になったんだって実感が湧いたよ」
「そうなんですか……」
 小大塚にはまだ想像もできない話だ。丹羽は銀縁眼鏡を押し上げると、にっと笑みを見せる。
「まあ、それだけこの運命を司る会は楽しいって事だよ」
「まあ、無事にこうして成立しているのは偏に私のおかげだけれどね」
「そうなんですか?」
「否定はしないが肯定もしない」
 どうしようもなく丹羽はただ苦笑した。その様子を見て何か察しがついたのだろう。「そうなんですか……」と小大塚はまた歯切れの悪い相槌を打った。
 美結は少しずつ焼けていく肉をひたすらに凝視しながら、至極どうでもようさそうに言った。
「ねえ丹羽君、そもそも中塚君は入る気になってくれたの?」
「あ、いえ、正直まだ全然運命を司る会のことがわからなくて。そもそもこの会って何人いるんですか?」
「そう。やっぱりそういう所をちゃんと説明しないと入るも入らないもないわよね」
 だから丹羽君、と美結は説明を丸投げする。丹羽は堂に入った動きで肩をすくめる。
「わかってますよ。んと、現在会員は中塚を除いて五名。三年に美結さんが一人、二年が三人、そして一年が一人だ」
「他に一年がいるんですか?」
「……そんな子いたかしら」
「美結さんは覚えていてくださいよ。実は中塚の前に、俺がチラシを貼る時にそれを見て入ってくれた子が一人いてね。渡辺さんっていって明るい子だよ」
 あー、と美結は間の抜けた声をあげた。
「いたわね、そんな子も。彼女どうしてここにいないの?」
「もう。前に言ったじゃないですか。彼女は外国に旅行、留学だったかな? まあ、そのために週に五日くらいバイトしていて、今日もちょうどバイトのシフトとかぶってたらしくて来られないんですよ」
「そういうのもアリなんですか? その、ほとんど活動に参加出来なくても」
 まあね、と丹羽は網の上に残っていた最後の一きれをつまんだ。美結がそれを追い縋るような眼差しで見つめるが、爽やかな笑顔で黙殺する。
「彼女も頑張っているんだからそれでいいんじゃないかな。運命を司る会は自らのために努力する人を拒むことはないよ。
 ――それよりも肉がなくなってきたな。何か頼もうか」
 丹羽は残りの二人に見えるようにメニューを広げ、
「おっ、これなんて美味しそうじゃないか、特上カルビ」
 真っ先に一皿千五百円もするカルビを指差した。
 小大塚はその、普段の一食分以上の値段の肉に血の気が引く思いがする。
「え、こんな高いもの頼んじゃって大丈夫なんですか? そんなに高いのなんて頼まなくても大丈夫ですよ。……その、さすがになんか悪いですし……」
「いいのいいの、どうせ他人の金なんだから。普段食べれないような高級な肉をどんどん注文したほうがお得だよ」
「ちょ、ちょっと……」
 あっけからんと笑う丹羽の言葉に、美結はアルコールのせいで上気していた顔を一気に青くして、ぱたぱたと着物の袖を振る。
「丹羽君、貴方の辞書に遠慮の二文字は無いの!?」
「それは前に寿司を食べに行った時、おごりだからと高いものから順に注文した人の台詞とは思えませんね」
「いや、でも、そ、その過去の過ちから学んだの。やっぱりそういうのは良くないわ。憎しみの連鎖は断ち切らないといけないと思うの」
「成程。では、自分も後学のためにここで過ちを犯しておこうかと」
「先例から学びなさい」
「何事も経験です」
「うう……」
 流れるような反論の数々。そうして美結が半分涙目になっているのに気付くと、丹羽は「まあ、でも」と表情を消して言う。
「今日は美結さんのおごりではないはずですよね? だって、中塚は美結さんのチラシを見てここに来たんだから」
「そ、そうね。違うわね」
 丹羽の言葉に相槌を打つと、美結はそわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせた。
 丹羽は素知らぬ顔で続ける。
「つまりここの代金は最終的に幸村と進藤が持つと。美結さんが財布を痛めることはないと。そうですよね?」
「……そうね、その通りよ!」
 美結は目を輝かせると何度も首を縦に振った。
「…………」
 小大塚はそんなやり取りを見ているだけで、なんとなくこの二人の立ち位置が分かった気がした。
「じゃ、そろそろ注文しましょうか。特上カルビでいいのよね?」
「はい。お願いします」
 美結は軽やかに呼び出しボタンを押した。しかしそのまま店員を待たずにふらりと席を立ってしまう。ゆらゆらと揺れる後ろ姿を小大塚は首を伸ばして眺めた。焼き肉屋には全く似つかわしくない着物姿が鮮やかだ。歩き方も実にしとやかで、なのにどうしてあんなにも危なっかしいのだろう。
 何度か客や壁にぶつかっている姿を見送ると、隣で肉を食べ続けている丹羽に尋ねる。
「あの、美結先輩は一体どこに?」
「そんなこともわからないようじゃ中塚もまだまだだな。W.C.だよ」
「ウォーター・クローゼット?」
「いや、ワールド・カップ」
「なんの世界大会ですか……」
 小大塚は半ば呆れた愛想笑いを浮かべると、丹羽はからからと楽しそうに笑った。
「んー。ダメっ娘選手権?」

 

 

 岬の爆弾発言は唐突だった。それも、原爆級の。
「――やっぱりさあ、二十歳になったんだからまゆちゃんにもカレシが必要だと思うの」
 まゆみはやけになれなれしい宇宙人にでも出会ったような面持ちで岬を凝視した。もしかしたら手の指が六本であるかもしれない。もちろん、そんな事はなかったが。
「…………? ごめん、私酔ってるかも。幻聴みたい」
「何言ってるの! だからねー、まゆちゃんにはカレシが必要なの!」
 反応の鈍いまゆみに焦れて岬はもう一度繰り返した。カレシ、とまゆみはぼんやりと呟いてから徐にグラスを手に取った。未知の単語でも聞いたかのように再び呟く。
「………………はあ!? カレシぃ!?」
 持っていたグラスをドンッと机に叩きつける。割れやしないかと思うほど大きな音が周囲の耳目を集めた。雪は僅かに眉をひそめる。
「ちょっと、零れるでしょ。あと周りに迷惑」
「あ、ごめ、でででも岬が!」
「だってもでももない。結構なことじゃない」
 うんうん、と雪の同意を得て岬は嬉しそうに頷く。まさかの雪の言葉にまゆみは目の前が暗くなったような気がした。
 一度大きく深呼吸をすると、躊躇いがちに、尋ねる。
「岬。……念のために訊いておくけど、それってカレーシチューの略称じゃないよね?」
「違うよ、何言ってるの? 恋人のカレシに決まってるじゃん」
「だよね」
 まゆみは落胆と同時に深い安堵を覚えた。たまに岬はとんでもない勘違いをしているから油断出来ない。中学時代に、「まゆちゃんってとてもビッチだよね」と言われた時は、もしかして自分はひどく嫌われているのではないかと真剣に悩んだ。後に勇気を出して問い質したら「チビの反対」だと思っていたらしい。あれはまゆみにとって今でも大きなトラウマだ。
 でも岬、と雪は話を元に戻した。私は興味ありませんと澄まし顔をしているが彼女は間違いなくこの状況を楽しんでいる。
「どうして急にそんなこと言い出したの? ま、確かにまゆみに恋人がいてもいいけど」
「それはね、今日の牡牛座の恋愛運が一位だったからだよ!」
「えー……」
 どういうことなの……と、まゆみは二の句が継げずに呆然と岬を見つめた。星占いなんて、一体なんの根拠になるっていうんだろう。
「それで?」と雪が促すと岬は嬉々として語った。
「うん。それで占いで素敵な出会いがあるって言ってたんだ。でも今日ずっとまゆちゃんと一緒にいたけど、結局そんな人と出会わなかったじゃん。占いって当てにならないよね。で、だからあたし達が見つけてあげるべきだと思うの!」
「……鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス?」
 雪がぼそりと呟く。岬は、「そう、それ!」とパチンと手を叩き、雪を指差した。
「まゆちゃんは背が高くてカッコいいし、可愛いし、とっても優しいんだからカレシがいてもいいと思うの。ううん、いて当然なんだよ。いないほうがおかしいの」
「いやいや、ありえないから」
 岬はどれだけ自分のことを過大評価しているのだろうか? 嬉しく思いながらもまゆみは苦笑して手を横に振った。
 だが、そこで雪が横から言う。
「そんなことないんじゃない? まゆみはもっと自分に自信を持つべきよ」
「ほら、ゆっきーもそう言ってる」
「ええ、私もそう言ってる」
「えー……いやいや……」
 二人のコンビネーションは抜群だ。まゆみは何か言おうと思うが、何も言えなくなって二人から視線を逸らした。
 この手の話題は女子同士で集まると、たまに振られるものだ。だが、まゆみはこれまで積極的に参加してきた事はない。小さい頃から周りより背が高く、そのせいでそもそも恋愛絡みの出来事さえ起きることがなかった。まゆみにとっては恋人達がどうやって付き合ってるのか想像さえできない。
 弱々しく俯くまゆみを見ると、小さくため息を吐き、雪は無表情にまゆみの顎を持ち上げる。
 まるで映画のスターがやるような動き。
 真っ直ぐに見つめられ、まゆみは何故だか固まってしまう。
「ねえ、まゆみ。一つだけ質問に答えて。まゆみは恋人がほしいかほしくないか、どっち?」
「そ、そんなの急に言われても……」
 困惑して目を逸らそうとするまゆみに、雪はずいと顔を近付ける。わあお、と岬の歓声があがる。同性から見ても整った顔立ちの雪に至近距離で見つめられ、段々頭が真っ白になっていく。
「別に誰が好きかとかそこまで訊いているわけじゃないの。ただ恋人がほしいか否か。簡単でしょ? イエスかノーでいいんだから」
「だ、だけど――」
 なおも言い渋るまゆみに向かって雪は、「どっち?」とにっこり微笑んでみせた。魅力的だからこその反転のプレッシャー。その恐ろしさに思考が凍りつき、最後に残ったわずかな勇気は塵へと消えた。
 顎を離され、まゆみは肩をすぼめて、ぼそりとつぶやく。
「……そりゃ、私も女だし、彼氏がいたらなーって思うことはある、よ」
 語尾がだんだんと小さくなっていき、最後には消え入るような声で、まゆみは俯くようにして言った。視線はもはや取り皿の下。二人の顔なんて恥ずかしくて見られなかった。
 岬はその答えににんまり笑うと、
「よしっ。じゃあ問題は相手を誰にするかだよね」
 さらりとまた爆弾発言を口にした。そのまままゆみが反論する時間を与えずに喋り続ける。
「そうだなあ、クラスの渋谷君とか西田君はどう? カッコいいし背も高いし。まゆちゃんとつりあうんじゃないかな」
「ダメ」
 雪は眉をひそめてすぐさま否定した。
「あいつらなんてただの馬鹿じゃない。風船頭よ、風船頭。まゆみにはもっとしっかりした人のほうが似合ってる」
「ううん……じゃあねー」
 そうして岬は何人かの名前を順に上げていくが、ことごとく雪に却下されていった。そのほとんどはまゆみも知っているが、ほとんど話した事もないような人の物だった。
「ちょ、ちょっと二人とも、なんの話をしてるの……?」
 当事者不在のまま進められる選定を止めようと、まゆみは思わず身を乗り出した。
 岬は不思議そうに首を傾げる。
「まゆちゃんのカレシ選び」
「もう、そういうのいいから!」
 まゆみが顔を赤くして拒絶すると、雪は当然のようにそれを曲解する。
「ああ、つまりまゆみにはもう心に決めた人がいると?」
「違うから! 全然そういうのじゃないから!」
「じゃあどういうタイプが好きなのさっ」
「うー……だからあ……」
 顔を真っ赤にして否定するも、二人は全く気にも留めていない様子だった。
 この二人を同時に相手にするのはまずい。今更ながらにそう気付くと、まゆみは深呼吸をひとつ、冷静を装って顔を上げる。
「そうじゃないけど私ばっかで不公平じゃない。そういう雪はどうなの?」
「私?」
 雪は人差し指を軽く顎に当ててことりと首を傾げた。
 雪の容姿を考えればそれこそよりどりみどりだろう。まゆみは知り合いの中で、雪ほど綺麗な女の子を即座に挙げることが出来ない。事実、雪は一年の頃にも断ってはいたが何度もそれらしい誘いを受けていたし、これもまた断ったものの、去年の明王祭でミスコンに参加してくれと実行委員に懇願されていた。むしろ、雪にそういった話がない方がおかしい。
「私はそうねえ、特に誰ってわけじゃないけど、類型で言うのなら話していて面白い人かな。私がその人と会話をしていて、知的感動を覚えるような人」
 さらりと言い放たれた言葉に、まゆみと岬は顔を引きつらせる。
「それって限りなく高いハードルだよね……」
「うん。ゆっきーについてける人なんてあたし見たことない」
「そう? でもいないことはないと思うけど」
 そんな反応に、雪は少しだけ不満げに眉をひそめ、グラスを傾けた。
「私の事はもういい。まゆみの話に戻ろう」
「……あのさ、もういいでしょ」
 まゆみは椅子の背に寄り掛かって大きな溜息をついた。
「私の彼氏に誰がいいかなんて、それこそ私の自由じゃない」
「ダメだよ! あたし達にはまゆちゃんのために素敵なカレシを見つける義務があるんだよ!」
「ないでしょそんな義務……」
 岬は胸の前で両の手の拳を握りしめて力説していた。言っていることは間違っているのに、仕草だけは可愛いらしいのだからなんだか憎み切れない。
「それじゃあねー、今思いついたけど、ラブ君とかのあの三人は?」
「ダメ。ラブはなんか気持ち悪い。アンドはうるさい。ピースは個性がない」
「それ、とりあえずぱっと思いついた欠点をただ言ってるだけでしょ……」
 まゆみが半分呆れながら言うと、雪は澄ました顔で首を横に振る。
「そんなことない。でも、あの三人もよろしくないから他で」
「えー。じゃあシンドゥー君は? 結構本命っぽいよね。なんたって面白いし」
「あのねえ、あんな行動バカにまともについていけるのは、タンバか岬くらいだって。とてもまゆみじゃついていけない」
「そう? 悪くないと思うけどな。――あっ! わかった!」
 岬は満面の笑みで一度手を大きく叩いた。
「じゃあタンバ君でどう? しっかりしてそうで、シンドゥー君より落ち着いてて、ついでに結構背が高い! おお、なんかピッタリな予感!」
「タンバねえ……」
 雪は先程のように即答せずに考え込んだ。「どうどう?」と岬が急き立てられ、ついついまゆみも一緒に考え込んでしまう。
「タンバねえ、タンバかあ……。まあ、他のよりはいくらかマシかもしれない。そうね、ここらで手を打っておいたほうがいいかもしれないわね」
「やった、ゆっきーも賛成だ。まゆちゃんはどう?」
「――えっ? いや、私は別に……」
 まゆみは一瞬だけ返事が遅れた。僅かに顔が赤くなってしまう。岬はその小さな変化を見逃さなかった。「はいっ!」と一度大きく手を叩く。
「じゃあ、まゆちゃんカレシ候補は見事タンバ君にけってーい!」
「ダメよ」
 そこに、不意に後ろから声が投げかけられる。
 それは蝶の文様をあしらった着物を着た女性だった。急に現れた彼女は不機嫌そうにゆがんだ唇を袂で隠すと、よろよろとテーブルの端にもたれかかった。その頬はわずかに紅に染まっている。鈍い動きに艶っぽい仕草は、傍目から見ても酒に酔っているとわかるほどだった。
「あんなのをカレシしちゃダメ。絶対後悔するから」
「あれ……美結さんじゃないですか」
 まゆみは困惑を抑えきれずに口を挿んだ。明らかに場違いな着物姿の美結にいっそ感心すら覚える。この人は焼肉に行くのも着物なのか。
「どうしてここにいるんです?」
「どうしてって、そりゃW.C.に決まってるじゃない」
「ああ、トイレね。というか店が一緒だったんだ。気付かなかったわ」
 雪が冷静に答えた。岬が、ワールド・チャンプじゃなかったんだ……などと言っているのを無視して、まゆみが相槌をうつ。
「まあ、明王の近くで美味しくて、学生でも手が届く焼き肉屋といえばここくらいですもんね。新歓でしたっけ?」
「ええ……一応ね」
 まゆみに頷きを返すと、美結は岬の隣にさも当然のように座った。新しい割り箸を不器用な手つきで割って、取り皿に盛大にタレを入れる。そしてごく自然な動作で程良く焼けた肉を取った。
「あ、美結さん、ちょっと」
「――うん、美味しい」
 狙っていた肉を盗られたまゆみは抗議の声を上げるが、当然のように無視された。
 更に美結が肉に野菜にと手を伸ばすので、まゆみはむっとした顔でその手を掴む。美結は袖を揺らして不思議そうに首を傾げた。
「何やってるんですか美結さん」
「試食?」
「当店では試食は行っていません!」
「……ケチ」
「ケチってなんですかケチって」
「ケチ」
「美結さんは、自分のテーブルで好きなだけ食べればいいじゃないですか。別にこっちで食べなくてもいいでしょう?」
「ケチ」
「――もうっ!」
「まあ、いいじゃない肉の一つや二つ。あ、美結さん、これも焼けてますよ」
 まゆみをなだめながら、雪は手際よく取り皿に微妙に焦げた肉を入れていった。どれも脂身が多く皆が敬遠していた肉だ。というか、最初に塗った脂身もさりげなく乗せられている。
 苦々しく唇をつりあげた美結は、「あ、ありがとう」とひきつった顔で笑った。
「いえいえ、どういたしまして。先輩を敬うのは後輩として当然のことですから」
 対する雪はいつも通りの澄まし顔で答える。
 軽く瞳を潤ませながら、美結は素早く肉を食べ終えた。そしてそのまま岬のグラスを勝手につかみ全て飲み干す。
「ごちそうさま。そろそろ行くわ」
 若干胸を押さえたまま美結は腰を上げた。雪が唇だけで笑みを作る。
「どういたしまして。あ、御手洗いでしたね」
「いえ、その帰りよ」
 美結はゆるゆると首を振ってから、まゆみ達の席から離れて行った。改めて美結が歩いているところを見ると、彼女がこの場でいかに目を引く存在かがわかる。美結が通った後は、誰もが必ず目で追ってしまう。
 ねえ、と岬は美結の後ろ姿を見たまま尋ねた。
「帰りって言ってたけど、行きに美結さんが通ったの誰か気づいた?」
「そういえば――」
「見てないかも」
 まゆみ達は腕を組むと、一斉に首を捻った。

 

 

「あの、ところでなんで美結先輩は行きと違うところから戻って来るんでしょう?」
 美結が戻って来たのはトイレとは反対方向の通路からだった。これだと美結はわざわざ遠回りして戻っていることになる。
 中塚、と丹羽はにわかに顔を引き締めた。
「気にしたら負けだ」
「気にしたら負け、ですか」
 丹羽の迫力に押されて思わず同じ言葉を繰り返す。
「ああ負けだ」
 二人して神妙にして頷いていると美結が元の席に座る。
「ただいま」
「おかえりなさい。それじゃ、美結さんも帰って来たし特上カルビ焼きますよ」
 丹羽がたっぷりと脂ののった肉を金網に載せていくと、食欲をそそる肉の焼ける匂いと音が広がる。脂が多いからか特上カルビはすぐに焼き上がった。
 食べようか、と丹羽は真っ先に箸を伸ばした。遅れて小大塚も続く。
「これは美味い。恐るべし、特上カルビ……。高いだけあるな」
「そうっすね。肉が柔らかい。あの、美結先輩は食べないんですか?」
 小大塚は箸を持たずに黙って座っていた美結に声をかけた。
「えっ、いや、食べるわよ」
 美結は躊躇いがちに箸を取った。そして一切れだけ食べると、「もういらない」と言いまたすぐに箸を置く。
「今日はもういいわ。脂っこいものばかり食べたから胃が重くて」
「でも、そんなに食べてましたっけ?」
 丹羽の疑問に、「淑女なのよ」となおざりに答えてから溜息をついた。
「ああ、そういえばさっき、雪がいたわ」
「幸村が? 偶然ですね」
「『この世に偶然や運命は無く、全てが必然と当然で構成されている』のよ、丹羽君」
「それ、言ってみたかっただけですよね?」
「ま、そうとも言うわ」
 美結は思いのほか素直に肯定する。小大塚が訝しげにしていると、丹羽が「運命を司る会の理念だよ」と付け加える。
「ああ、幸村雪というのはね、運命を司る会の一員よ。隙を見せたら骨の髄までしゃぶりつくす悪魔のような女だから十二分に注意しなさい」
「本当ですか? 冗談ですよね?」
 小大塚は丹羽に確認を取るが、丹羽は、「さあどうだか」と様になった仕草で肩をすくめるだけだった。
「まあ、会えばわかるよ。会計終わったらちょっと顔を見せに行こうか」
「嫌よ。めんどくさい」
 美結はけだるそうに呟いた。さっきは食べないと言っていた特上カルビを何切れもまとめて取る。慌てて丹羽が箸を伸ばした時には黒く荒れ果てた金網が残るだけであった。
「……ちょっと、美結さん?」
「何かしら?」
「後輩に対する優しさは良好な人間関係を築くために必要不可欠だと思いませんか?」
「そうね、良いこと言うわね」
 恨めしそうに睨む丹羽に、美結は平然と肯定した。ですよね、と静かに笑うと丹羽は呼び出しボタンを押し、店員に、「特上カルビ二つ」と注文した。
「さ、まだまだ食べるぞー」
「…………」
 静まりかえる二人を余所に丹羽は威勢よく声を上げた。


 結局、その後何を思ったのか美結がさらに肉を頼んだせいで、食事会が終わったのは九時過ぎになった。
「じゃ、そろそろ行こうか」
 頃合いを見計らって丹羽は伝票を掴んで立ち上がった。小大塚も慌ただしくそれに続く。だが、美結は椅子にぐったりと体を預けたまま動こうとしない。明らかに食べ過ぎのせいだった。
「あ、後五分……」
「夜ですよ、起きて下さい」
「……うん」
 口元を押さえ美結はよろよろと立ち上がった。まるで試合に負けたフードファイターのようだ。
「とりあえず会計は美結さんお願いします。俺はあんま金持ってきてないんで」
 美結は無言で手渡された伝票を受け取り、ふらふらとおぼつかない足取りで会計まで歩いて行った。どうやらかなり酔ってもいるらしい。
「美結先輩大丈夫なんですか?」
 小大塚が会計を待つ美結を見て丹羽に尋ねた。
「まあ意識はっきりしてるし問題ないだろ。いや、素直に支払いに行く時点で大分問題ありとも考えられるけど。普段ならもっと理由をつけて渋るはずだしな」
 丹羽は銀縁眼鏡を押し上げると、美結の後ろから金額を覗きこんだ。
「どうです、足りそうですか?」
「ん。足りる。ほら」
 美結はしおらしく頷いて、財布から無造作に紙幣を取り出した。
そこに、すっと白い手が伝票を差し出す。
「じゃあついでにこれもお願いします」
 鈴の鳴るような綺麗な声。三人が振り返ると、そこには邪悪な笑み浮かべた雪がいた。
「いや、幸村。流石に可哀想だからやめてやろうな」
 丹羽は受け取った伝票をすぐさま雪に突き返す。どうやら雪達も丁度食事が終わったようだった。
「冗談よ、多分。で、新入生来たんだ。ありえない」
 視線を向けられた小大塚は曖昧に会釈した。
「あ、どうも。小大塚です」
「私は幸村雪。よろしくね。後――」
 と雪が何か言葉を続けようとしたが、
「あっ、タンバ君だ。やっほー」
 ぶんぶんと手を振る岬によって遮られた。後ろにはまゆみもいる。丹羽が二人に向かって同じように手を振ると、まゆみには視線を逸らされた。
「ゆっきー、会計終わった?」
「終わるわけないでしょう。だって割り勘だもの」
「……ねえ、主賓ってどういう意味なの? 口実? というか割り勘ならもう全くメリットないよね?」
「お祝いの言葉が貰えたよっ!」「日本は平等主義なの」
「……はい。わかりました。もう結構です」
 まゆみは諦めて財布を取り出した。
「これからどうするの? 解散?」
 美結は会計を終えて問いかけた。空いたレジには雪達三人が集まって割り勘で精算を行っている。
「そうですね……。中塚はこの後何か予定ある?」
「いえ、ないですけど」
「そうだな、じゃどこか二次会でも――」
 とその時猛烈な勢いで四人の青年が店に入って来た。そのうち、赤い服を着た茶髪の青年が丹羽の姿を認めるやいなや叫ぶ。
「待たせたな! ヒーローは遅れてやってくる。今ここにラブアンドピース、とシンドゥー揃って参上!」
「いや語呂悪くて揃ってないから」
 丹羽の指摘にハッと四人が思い思いのポーズを取るが、案の定これもバラバラだった。
「もしかして、ひょっとしてもう焼き肉終わった?」
「もしかしなくても、ひょっとしなくても、終わって会計も済ませたよ、進藤」
「そ、そんな……!」
 進藤が露骨なまでに落ちこむと、残りの三人も同じように肩を落とす。
「せっかくコンビニ弁当じゃない食事が食べられると思ったのに。その希望も夏の夜の夢の如し、か。春だけど」
「せっかく焼き肉が食べられると思ったのに。その希望も夏の夜の夢ようだった。ま、春だけど」
「せっかくタダ飯が食えると思ったのに。その希望も夏の夜の夢のように消える、か。春だけどな」
「黙らっしゃい」
 会計を終えた雪がピシャリと流れを断ち切った。岬とまゆみも含め、十人の男女が店の入り口に揃った。そこで雪は進藤に予定を尋ねる。
「これからどうしよっか? 一応このメンバーで二次会でも、って考えてたけど」
「二次会!? そうか、その手があったか!」
 途端に元気を取り戻す進藤に、
「と、いうことは!」
 ラブアンドピースの三人が囃したてる。
「二次会だああああああーーーー!」
 耳をつんざくような進藤の叫びが焼き肉屋に木霊した。

 

 それから二次会、三次会と続いてき、朝方になってようやく解散という運びになった。
 そして小大塚――中塚を含め、多くの参加者が、次の日を丸々休養に費やしたのは言うまでもない。

                                                                                                                                      了