彼岸花 (藤猫くする)

 

 K青年は、一面の彼岸花の中を、さくさくと歩いていました。
 足元はどうやら、細かい砂利です。左右には、見渡す限りに赤い花が広がって、そこここで風に揺れてざわざわと音をたてます。その微かでとめどない音と、砂利を踏む自分の足音以外は、何も聞こえない場所を、青年は一人どこまでも歩いているのでした。 
 いつの間にか、青年は右手に彼岸花を一輪持っていました。青年が一足進めるごとに、赤い花弁がぱたり、ぱたりと落ちました。どれほど落ちても花の形が崩れることはなく、また萎れることもありません。それは、左右の景色がどこまでも続いているのと同じで、K青年にとっては取るに足りないことでした。ただ、みずみずしい茎が滑るので、時々しっかりと握りなおしました。いつから持っているのかわからない花ではありますが、それを取り落してはならないように、青年には思われるのでした。
 ふと、一面の彼岸花が映っていく視界に、それ以外のものが紛れて、青年は知らず足を止めました。そうして、首を回してそれを視界の中心に据えました。
 そこにいたのは、一人の少年でした。砂利の道端に、転がった少し大きい石に腰をかけて、こちらを見つめるTシャツ姿の少年でした。彼岸花を渡る風がそよそよと、麦わら帽のつばを揺らしています。汗ひとつかいていないその姿は、どこか滑稽に、K青年の目には映りました。
 少年は、青年が自分を見ていることをしっかりと悟った表情で、けれどにこりともしないまま、青年に声をかけてきました。
「こんにちは。」
 こんにちは、と青年も返しました。少年は、ぐるっと一遍青年の姿を眺めまわして、それから右手の彼岸花をじいっと見つめた後、再び青年の目を見つめて、口を開きました。
「それ、どうしたの。」
 訊かれても、青年にはわからないことでしたから、首をかしげました。すると、少年はため息をついて、座っていた石から腰をあげました。
彼岸花は、すき?」
 考えたこともないな、と青年は再び首をかしげました。その拍子に、茎が右手から滑り落ちそうになったので、ゆっくりと持ちなおしました。ぱたり、とまた、花弁が落ちました。
 一面の群生の中を歩いてきたのに、その手には花を持っているのに、K青年にとって彼岸花は、なんとも思いもしないものなのでした。
 少年はまたため息をついて、青年を見つめました。
「そうなるまで、だれも、」
 不思議な瞳でした。黒目がすうっと透明になるように底光りして、けれどもずいぶん昏い色をしているのです。彼岸花の燃えるような赤が、くっきりとその中に映り込んでいるのに、その色はしんと水を打ったように静かなのです。
「あなたを、ゆるしてはくれなかったんだね。」
 その声音には、哀れむ様子も悲しむ様子もなく、ただ後悔に似た諦めだけが、彼岸花の群生のように、静かに揺れているのでした。
 すう、と少年の細い指が、K青年の後ろをさしました。
「ここを、もどって。」
 ざあ、と風が、それを示すように、青年を導くように吹きました。
「ぼくはあなたを、ゆるすことはできなかったけれど。」
 ざわざわと、彼岸花が鳴り渡ります。つられて体の向きを変えた青年の足元で、砂利がぎしりと音をたてます。ぱたり、と花弁が落ちます。
「つれもどすことはできる。あなたの『彼岸花』が、まっているよ。」
 その言葉が合図だったように、K青年は道を戻りました。最初は歩く速度で、次第に足早に、小走りになって、しまいには走り出しました。右手にはしっかりと、花の柄を握ったまま、そこから落としてきた花弁を辿るように。
 走る先に、何かが見えました。いつの間にか、左右に広がる彼岸花は消え失せて、それとすり替わるように、見えてきた何かは赤いのでした。
 あの色を、K青年は知っています。あれは、ドレスの色。彼の妻が一番好きな、彼女に一番似合う、真っ赤なドレスの色です。

『わたし、赤が一番好きよ。あなたがわたしに似合うって、言ってくれた色だから』

 そう言って君が笑ったのは、どれほど前のことだったろう。
 その赤いドレスに袖を通して、君は他の男の手を取ったんじゃないか。
 君を責めるなんて選択肢は許されなかった。けれど、去っていく君を放すなんて、できやしなかったから。

 彼岸花の花茎が伸びるように、唐突に伸びた青年の腕の先には、真っ赤な花が咲いたのです。ドレスよりもずっとずっと赤く、妻の喉元に。
 耳の中で、ざわざわと渡る風のように、血の音がなっています。倒れた妻を見下ろしながら、青年はそれを聞いていました。
 ぱたり、と、右手の包丁から、花弁のように赤い血が滴り落ちます。それを取り落さないように、K青年はしっかりと握りなおしました。